西宮の歴史

西宮市には南部の大部分に入海が出来ており、入海が完全に埋まったのは中世後期頃と考えられている。現在、西宮神社から東に伸びる旧国道は、当時、入海とを区切っていた砂州の跡であり、一部の区間で、道路が周辺より少し高くなっていることが確認できる。弥生時代には遺跡、古墳時代には古墳が多く作られている。奈良時代以前に廣田神社、平安時代に淳和天皇の勅願寺として空海により鷲林寺が創建(833年)されたほか、神呪寺などの社寺が開かれる。西宮神社の門前に開けた西宮は14世紀には市場が設けられて商業の中心となり、西国街道と中国街道の交流地であることから宿場町としても栄えた。室町時代には西宮の名産である旨い酒が知られ、都の人々に好まれていった。その後、酒作りは江戸時代に本格的に始まり、一時は他地区に抜かされそうになったが、「宮水」の発見により、優れた酒を造れるようになった。工場制手工業が導入され、酒は西宮港から樽廻船を用いて江戸にも運ばれるようになり、大変好まれた。近代になると、酒造会社が多く作られ、現在に至っている。 17世紀以降には新田開発がはじまり、水を引くための用水路を作るのに村の間で争いが起こる。また農業(米・菜種など)や漁業(鯛など)も発達していった。その後近代になり、官営の大阪神戸間鉄道(現、JR西日本東海道本線・JR神戸線)、阪鶴鉄道(現、福知山線・JR宝塚線)、阪神電気鉄(現、本線など)、阪神急行電鉄(現、阪急神戸線ほか)、阪神国道電軌(後の阪神国道線、1975年廃止)が開通し発達していく。特に、大阪と神戸のほぼ中間にあるという立地的な強みから、大正期から積極的に住宅開発が行われ、阪神間モダニズム(1905年 - 1940年)と呼ばれるライフスタイルが生まれる。現在その中でも、「甲東園」・「甲子園」・「甲陽園」・「苦楽園」・「香櫨園」・「甲風園」・「昭和園」は総称して『西宮七園』と呼ばれ、いずれも高級住宅街として知られている。「西宮」という名称の起こりについては諸説あるが、えびす神を最初におまつりしていたと伝えられる鳴尾や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説や平安京(京都)から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎神信仰の隆盛と共に戎社(西宮神社)を「西宮」と限定して呼ぶようになったという説などが有力。 その後、明治中期の町村制施行により一時は廣田神社が武庫郡大社村、戎社が西宮町に属するようになったが、大正期における西宮の単独市制施行の後、大社村は昭和期に同市へ編入され、現在に至っている。